松原 聡(ピアニスト) 

神奈川県出身。3歳よりピアノを学ぶ。9歳より桐朋学園子供のための音楽教室でピアノを故・新井精と周参見夏子の両氏に、和声・ソルフェージュを作曲家・松井和彦氏に師事。13歳でウィーン市立音楽院ピアノ科入学試験に当時最年少で合格。16歳の時、東京にて初リサイタルを開催。その後、ピアノを酒井忠政氏に師事した後、チェコ・プラハ音楽院へ留学。ピアノをヤン・ノヴォトニー教授に師事。更にパリにて巨匠エリック・ハイドシェック氏より薫陶を受ける。2003年神奈川県民ホールで1927年製エラールピアノのコンサートでデビュー。2007年東京での「中国趣味の洋琴を聴く会」で企画と演奏を兼務し、音楽雑誌ショパン7月号で高い評価を受けた。2009年東京と名古屋の室内楽、2010年高崎で1844年製プレイエルピアノによるショパン・レクチャーコンサート、2012年に高崎市主催の「夢奏人シリーズ」のリサイタルで高い評価を受ける。2015年に東京でリサイタル開催。2016年11/24紀尾井ホール「1906年製スタインウェイお披露目コンサート」リサイタルで絶賛を博し、2017年12/ 6サントリーホールでの同ピアノのコンサートにも出演。夫人のメゾソプラノ歌手、諸田広美とは2013年以降各地で共演を重ね、2015年ジョイントリサイタル(高崎・東京)、2016年11月末から2017年初旬に亘ってヨーロッパ演奏旅行を行い、チェコのフラデッツ・クラーロヴェーのペトロフ本社内博物館ホール、ポーランド・ポズナンのポーランド劇場、イタリア・ミラノの「音楽家養老の家」内トスカニーニ・ホールのジョイントリサイタルにて大成功を収める。また、ピアノ研究家として欧米のヴィンテージ・ピアノ、及び歴史的録音の研究や収集、自動ピアノのCD復刻の監修や執筆等の活動も行っている。現在、群馬県を拠点に、各地で多彩な音楽活動を展開している。

1.どうしてピアニストになったか?

3歳からピアノを習い、最初の1年位はピアノの鍵盤を、当時ハマっていた盆踊りの太鼓のように思っていたようで、なかなか上手くならなかったんですが、それを過ぎると楽しくなってきました。
小学校ニ年生の時、近所のピアノ店で古いフランスのエラール社のアップライトピアノに出会い、音程が下がって狂った音でしたが、即座にその妖艶な音にすっかり心奪われたのが、今に続く往年のピアノのライフワークへの最初の出会いとなりました。
そのピアノ店の紹介で、当時、静岡県磐田市にあった、浜松ピアノセンターへ度々伺って、当時日本一の規模を誇った歴史的なアンティークピアノのコレクションや、ヨーロッパの一流ピアノに大量に囲まれ、当時の社長さんのご厚意で、日がな一日自由に弾き倒させてもらいましたが、その中にはベートーヴェンやショパン、リストが使ったものと同型のピアノもあり、それらの楽器の弾き方を自然と体で覚えたものです。

小学校二年の時に桐朋学園大学音楽学部附属「子供のための音楽教室」に通うようになりました。その入室時に故、寺西春雄先生に演奏を聴いて頂いて素晴らしいアドヴァイスをいただき、小学校いっぱいは基礎をしっかり勉強して、中学生になったら家族ぐるみで留学するようにと勧められました。

小学校五年生の時に、ツアー旅行で初めての海外旅行でウィーンを訪れ、その時にその素晴らしい街並みをはじめ、学校などを見て回りました。
そして、中学校一年の時に、何のツテもなく、ウィーン市立音楽院(現:ウィーン市立音楽大学)の入学試験を受けて合格しました。それから住居の手配や学校への入学手続きもして、いよいよ留学準備で日本に戻ってきたときに、親の経営していた会社がバブル崩壊のあおりを受けて倒産し、一家は離散。大事なピアノも失いました。そして、紆余曲折を経て東京に引っ越し、中学校にも通えない状態だったのですが、中学3年になって何とか復学して、学校のご厚意で放課後に音楽室のピアノを弾かせてもらえる事になり、久々に練習を再開しました。当時は家にピアノが無かったので、コンサートへの出演や、オーディションを受ける時は、時間貸しの音楽スタジオに通い詰めてピアノの練習をするしかなく、他の人から比べるとずいぶん不自由な思いをした時代でした。
その後は、8年もピアノが無い生活が続きましたが、歴史的な演奏家のCDやレコードを貪り聴く事で耳から音楽の感性を磨き続けました。

中学卒業後は、昼は建物調査会社で働きながら、夜は定時制高校に通いました。
ある時、横浜のみなとみらい線の建設工事の事前家屋調査で中華街の下水管内の調査を終えてマンホールから地上へ顔を出すと、子供の頃によくコンサート連れて行って貰った「神奈川県民ホール」の裏手が見えて、昔を懐かしく思い出しましたが、その4年後、実際にそこでデビューで舞台に立つことが出来ました。

結局は大学へ行かず、家屋調査会社で働きながら独学を続け、ヨーロッパへの留学へ強い希望を持ち続けていました。そして、20歳を過ぎて友人の関係からの紹介でピアニストの酒井忠政先生に師事できるようになり、ようやく本場ヨーロッパのメソッドを数年に亘って学びましたが、その内に先生の健康上の事や様々なご事情から次第に定期的なレッスンが難しくなり、勉強を継続する方法や、ずっと抱き続けていた留学について考えるようになっていきました。そんなとある仕事帰り、たまたま立ち寄った近所の本屋で見ていた音楽雑誌に「プラハ音楽院入学試験」が載っているのを見つけ、何かピピッと閃くものを感じました。西ヨーロッパは物価が高いのですが、東ヨーロッパのチェコ、プラハなら物価も安いはずだし、もしかしたら留学できるのではないかとの思いに賭けてみたくなり、一念発起して受験を決意しました。ところが、受験日が一週間後に迫って会社に休暇を取ろうとした矢先、会社が突然倒産しました。そして、本当に背水の陣となったのですが、最後のお給料を持ってプラハ音楽院の試験を受けに行き、無事に合格する事が出来ました。
しかし合格したものの、キャリアも何もない私には奨学金を受ける事すら絶望的であり、留学費用を自分で工面しなければならなかったので、どうしようかと思っていたところ、友人が経営していた秋葉原のオーディオショップの店番のアルバイトの話がちょうど舞い込み、音楽院には留学まで猶予をもらって、本当に必死で働きました。その店番で知り合ったお客様に応援して頂いて大変お世話になり、今に至るまで応援やサポートを頂いています。実に留学の2日前まで働いてようやく留学する事が出来ました。プラハ音楽院では、チェコのピアノ界の巨匠ヤン・ノヴォトニー教授に師事して必死に学び続けました。そして常に「西洋音楽の概念とは?」というテーマを求め続け、時にポーランドやドイツ、オーストリアへと一人で旅しながら彷徨い歩きました。

帰国する時に、以前からよく通っていた歴史的なピアノの修復を手掛けるピアノ工房さんの主催で、神奈川県民ホールでのコンサートの演奏者として抜擢頂いて、それは帰国後3日目でしたが、このコンサートでデビューさせて頂きました。

その後、有難くも秋葉原勤務時代のお客様のご縁でピアノを手にすることが出来ました。
音大を出ていれば、ツテがあるかもしれませんが、孤立無援で留学から帰国したばかりのピアニストに仕事はなく、たまたま見つけた旧国立楽器が経営する音楽スタジオのスタッフ募集に応募し、働き始めました。その職場近くに往年のフランスのピアノで長年憧れていたピアノ「プレイエル」の日本唯一の専門店「サロン・ド・ノアン」があり、お昼休みの度に遊びに行くようになり、ここを仕事場としていた旧国立楽器の社長の知遇を得る事が出来て、お店のお仕事のお話を頂くようになり、やがて専任担当として、ピアノの販売や、コンサートの企画や演奏、プロモーション活動へと裾野を広げて、いつしか私自身の音楽活動の拠点へとつながっていきました。
プレイエルは、知る人ぞ知るというようなピアノなので、ホームページにその歴史や様々な詳しく説明を執筆して、それを読んだお客様が遠方からも来店して頂けるようになり、やがてピアノ業界の中でも知られる存在になっていました。
そして、フランス製のピアノを扱っている事から、次第にの本国フランスとのご縁が出来始めて、パリから演奏家の方もいらっしゃるようになりましたが、その中で、フランスの演奏家を日本で紹介するコンサートの企画のお手伝いをさせて頂く事になり、その時に演奏者として来られたのが、私が長く憧れていた世界的なピアノの巨匠エリック・ハイドシェック先生その人でした。そしてこのコンサート企画の中で先生のお世話をする機会を頂いて先生の知遇を得る事が出来て、会社の冬季休業を利用して、ついにパリの先生のお宅にホームステイさせて頂きました。滞在中は、レッスンだけに留まらず、様々に語り明かすことしばしばで、その中でフランスの演奏史や芸術・文化について多くを学ばせて頂き、古き良き時代の空気感や雰囲気までも触れ、何より芸術におけるイマジネーション(想像力)の大切さを学ぶ事が出来た事は、私にとって計り知れない財産になっています。その年は、計3度もパリに行く機会を得る事が出来ました。

2010年に「プレイエル」社がピアノの製造を大幅に縮小してしまったので、旧国立楽器がプレイエル専門店を閉店、撤退することになったのを機に、取引先だった高崎のピアノ販売会社に転職し、そこで社員としてピアノ販売、ホームページ執筆、コンサート企画事業や音楽教室業務などを兼務して働きながら、高崎市主催のコンサートシリーズでソロリサイタルをさせて頂いたのを始め、社内の様々な企画で演奏も行いました。そんな中で、後に妻となるメゾソプラノ歌手、諸田広美と仕事を通じて出会い、2014年に結婚しました。この会社での一番大きな仕事は、2015年の群馬交響楽団創立70周年記念事業として、イタリアのプッチーニ財団と群馬交響楽団とのコラボによるプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の上演でした。その際、それぞれの歌手のみならず、コーラス団員まで一般公募を行いましたが、妻の諸田が準主役「スズキ」役に合格しました。この時は会社の通常業務の他、事務局を私が一手に任され、挙句の果てにはイタリアから来日したアーティストのお世話に至るまで八面六臂で職務をこなしました。

結婚の前後は仕事が多忙を極め、ピアニストとしての活動を休止している状態でしたが、諸田と結婚してから、ピアニストとして何かとステージへ引っ張り出される機会が増え始め、オペラの仕事を一区切りとして会社を退職し、再びピアニストとして音楽活動を行っており、紀尾井ホールでのリサイタルを始め、2016~7年には諸田とのヨーロッパ演奏旅行を成功させました。現在は元の会社へ、嘱託として週2日出勤しながら、ピアニストとしての活動や、ピアノ研究家、ピアノ講師としての音楽活動を行っています。

 

2.これからの夢

もちろん、ピアニストとしての演奏活動を広げていきたいですが、ピアノ研究家として、かつて意外と日本にいっぱい入ってきていた往年の欧米のピアノの名器の発掘、そして、それらでの演奏や解説などを通じて本来の魅力を伝える活動も展開させて行きたいです。

3.これから音楽家になりたい方へのメッセージ

私は小さい頃、静岡のピアノコレクションで、歴史的なプレイエルピアノを弾いた時に、雷に打たれたようにトランス状態に陥った経験があります。現在まで何十年もピアノを続けている背景には、この時ピアノにもたらされた衝撃と感動を再び体験したいという思いと、その時の自分の状態を理解しようとあらゆる角度から研究する側面と、楽器が好きで研究している側面も含めて、未だに青い鳥を追いかけているのかもしれませんが、その研究の過程や留学時代に触れる事が出来た「音楽の概念」を探求し続けています。若い皆さんにも、ただ日常に練習するだけではなく、音楽家を志す過程で、なるべく早い時期から「音楽の概念」を探求してもらいたいですね!

私は、留学時代にワルシャワに行った時に、ショパンの自筆の楽譜に出会ったときに、音符一つ一つの筆圧にニュアンスが込められていると即座に感じました。たまたま自筆譜を読んでいた時に、偶然ちょうどその曲がBGMで流れたのですが、自筆譜を読みながら聞いていて、その原典版であるはずの演奏が「何かが違う」ことに気づきました。
ショパンが楽譜を書いた時、あらゆる記譜法を駆使して、オペラ歌手が歌うメロディー1音1音の微細なニュアンスを記録しようとしていた事に気付きました。そこで「音楽の根源とは、人間の歌声である」ことを悟りました。そして同時に、ショパンの自筆譜を読んでいた時に頭の中で鳴り響いた音楽を一生掛かって実際の音にして演奏する事が自分の使命である事も悟りました。私は、その瞬間から音楽家として生まれ変わったのだと今でも思っています。今、自由に欧米へ行ける時代になり、若い皆さんに世界に出て沢山の感動と確信を掴み取ってもらいたいと思い続けています。

(2018年5月取材)


 

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