鈴木鎮一、海野義雄の各氏に師事。新潟大学卒業後、ザルツブルク、モーツァルテウム音楽院にてL・デ・バルビエリ氏に師事し、同音学院を最優秀で修了する。同音楽院コンクール第1位。
その後、ロンドンを始めヨーロッパ各地、アメリカ、中国、メキシコなどでリサイタル、コンチェルトなどのソロおよび室内楽の活動を始める。
1992年、中国北京文化庁の招聘により、日中国交20周年記念行事に参加。北京中央楽団とベートーヴェンのコンチェルトを共演。
1999年にはノーベル賞受賞で著名なドイツ・フンボルト財団の招聘により、ボンのベートーヴェンホール他、各地でリサイタルを開催し、絶賛された。
1991年よりウィーンの仲間たちと「アンサンブル・ウィーン東京」を結成。内外で高い評価を受け、さらに1995年には、ベルリン・フィルの首席奏者を中心とした「インターナショナル・ソロイスツ・カルテット」のメンバーとして、オーストリア、ドイツ、ポルトガルなどの音楽祭に出演するなど、ヨーロッパ各地で活躍している。
2000年には文化庁芸術家海外派遣員としてオーストリア・ウィーンに留学。
2002年カーネギーホールにおけるコンサートにソリストとして出演、高評を博す。
これまでに、ウィーン室内管弦楽団、ヴィルティオーゾ・オーケストラ(ロンドン)、東京フィルハーモ二ー交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、テレマン室内管弦楽団などと共演。
2006年モーツァルト・イヤーは、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロンドン響などの世界トップクラスのオーケストラの首席奏者で編成され、毎年大きな話題を呼んでいるスーパーワールドオーケストラ全国ツァーにフィリップ・アントルモン指揮のもとソリストとして共演。
また、CDも数多く出版。特に、2003年にリリースされた巨匠イエルク・デムスとの『モーツァルト・ソナタ集』は大きな話題となった。
2006年4月には、モーツァルト生誕250年記念「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集 / 中澤きみ子&アントルモン」を発売し絶賛される。
それに続き、第2弾として、2007年11月、モーツァルトの「2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ」、「ピアノとヴァイオリンのための協奏曲」が、2009年3月には「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」が発売された。
2012年、夫であり、弦楽器製作者中澤宗幸が東日本大震災の流木から製作した「TSUNAMIヴァイオリン」の演奏に積極的に取り組み、震災を忘れず、また癒すために法隆寺、伊勢神宮、明治神宮での奉納演奏に加え、各地で演奏している。
多くの演奏活動のかたわら、数多くのコンクールの審査員を務め、また後進の指導にも当たり、次代を担う若手ヴァイオリニストの育成にも力を入れている。
1.音楽をやり始めたきっかけ
長野県上田市で生まれました。
父が戦争が終わって故郷へ復員の途中、あるお宅から流れてきたヴァイオリンの音色を聞いた時、平和を実感して、涙が出て、将来子供ができたらヴァイオリンを習わせようと思っていたそうです。その出来事がきっかけで私が、5歳になったときに、ヴァイオリンを始めました。
田舎でしたので、周りに憧れるような演奏家がいませんでした。
ですから、中学か高校の音楽の先生になろうと思っていました。
国立大学に行って、教職も取り、高校の音楽の先生になろうかという、卒業ぎりぎりの時に、担当の先生から、「君はヴァイオリンが上手すぎるんだよね。このまま学校の先生になっていいんだろうか?桐朋の大学にディプロマもあるので、この上も狙ってみたら?」と言われ、特に準備もせずに試験を受けたら、受かってしまいました。
でも、学費と、東京の生活費を公務員の父のお給料ですべてをまかなうのは無理だなぁと思っていたところ、鈴木メソッドの鈴木鎮一先生からお電話をいただきました。
もともと、私は、鈴木メソッドで学んでいたんです。
「上田に50人の生徒を持っていらした先生が、結婚でふるさとに戻ってしまったんだよね。きみ子ちゃんなら、絶対教えられると思うんだけど」と言っていただき、岐路に立たされました。
結局、東京へは行かず、教えるほうを選び、毎日毎日朝から晩まで生徒を教えていました。
「このままだと腕が落ちてしまうかも?」と思い、「一度音楽の都に行こう!」と、ザルツブルクの夏期講習に行きました。
参加していたのは、最高レベルの音楽大学を出た優秀な生徒さんばかりだったのですが、なんとヴァイオリン科で一番を取ってしまいました。
その時、初めて「私って、ヴァイオリンが弾けるんだ!」と気づいたわけです。
その時、すでに26歳か27歳で、まったく出遅れてしまいました。
でも、一番を取ったところで、音大も出ていないので、誰も認めてくれませんでした。
でも主人は、「やっぱりヴァイオリンをやるべきだよ」と言ってくれましたが、結婚したら、子育ても大変で手も主婦の手になっていました。
ある時に、ウィーンの演奏家が主人のヴァイオリン工房に来た時に、「うちの奥さんもヴァイオリンやるんだけど、一度一緒に弾いてやってくれない?」と主人が言ってくれました。それで一緒に室内楽をやってみたところ「すごいじゃない!!!彼女すごく弾けるね。僕たちと一緒にアンサンブルをやろう」と言ってもらい、それからは、ウィーンと日本を行ったり来たりすることになり、その後、文化庁芸術家派遣員に選ばれ、50歳でウィーン留学も果たすことができました。
また教えるほうも、私の教える子がどんどん音楽大学に入り、国際コンクールに入賞するようになったり、海外のオーケストラのコンサートマスターや団員になっています。
私の生徒には、私のような周り道はさせたくないので、指導者として、ある程度のレールを引いてあげれば、成功させてあげることができました。
最近は、海外のコンクールの審査もしています。
秋にはロシアのコンクール、去年は、クロアチアのコンクール、その前はスイスのコンクールの審査をしました。
そうすると、国際コンクールのレベルがわかり、生徒を何とかそこまでにしたいと思うと、生徒はちゃんとそのレベルまで到達します。
自分の目指すところは上にあり、それがわかり、努力すればそこまでにいけることがわかったので、それを生徒たちに伝えています。
また、私は、国立の総合大学を出ているので、盲目的に音楽大学に行くよりも、一般の大学に行ったほうが良いと思う子には、そちらを勧めるようなアドバイスをするようにしています。
2.これからの夢
自分の夢はほとんどかなえたかもしれませんが、生徒たちは私の音楽家としての終焉を見てますので、ちゃんと音楽家らしい終焉を見てもらえたらと思っています。
「最後は舞台の上で死にたい」という方もいますが、そうすると、大事な楽器を壊してしまいます。(笑)
もちろん努力は最後まで怠りませんが、欲張って最後は舞台でとは思っていません。
生徒たちが人生の選択に迷ったときに、私が普通の道を通っておらず、プロになったのは、40歳すぎというように、色々な選択肢があることも見せてあげれるかと思います。
自分が弾くのも大好きですが、生徒が弾くのを聞くのも大好きです。
3.音楽家を目指されている方へ
日本の音楽家の卵って、プレッシャーで生きているようなものだと思います。
親の期待や、国の期待を背負いすぎています。
ソリストになりたいと毎日10時間も練習する若者もいます。
でも、欧米では、みんながソリストを目指すことはありません。
その人なりの、得意なところで、楽しく豊かにヴァイオリンをやれるとよいと思っています。
自分の立ち位置をしっかり知って、室内楽に行っても、先生になってもいいし。
絶対に一番にならなきゃとか、絶対にソリストと思っていると、途中で息切れしちゃうんです。
ベートーベンが自然の中で曲を作ったように、枯れ葉がちらちら落ちるようなかすかな音も表現できる情緒が大事なのです。
それがわからないと、豊かな音楽は出来ないんですよね。
ですから、生徒の中には、ポップスに行った子も、ジャズに行った子もいますが、みんなとても楽しそうにヴァイオリンを弾いています。
それも見るのもとても幸せです。
それぞれが、楽しく豊かにヴァイオリンができる道を見つけてほしいと願っています。
(2018年7月取材)