古川精一(バリトン)

第1回 古川精一(バリトン)

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デンマーク国費奨学生としてデンマーク王立音楽院に留学。ケール・トールップ氏、アンドレ・オルロビッツ氏、ハンノ・ブラシュケ氏に師事。アムステルダム・スヴェーリンク音楽院にてシャール・ファン・タッセル氏に師事。
ドイツ・エッセン市立歌劇場と4年半の専属契約。その後ドイツ・リューベック市立歌劇場と専属契約。多数のオペラに出演。
コペンハーゲン、ワルシャワにてそれぞれリーダーアーベントを開催し、ポーランド国営ラジオ放送にて放送、好評を得る。ドイツ・エッセン市立管弦楽団との共演、デンマークにてショパン協会主催によるソロリサイタル、デンマーク王立音楽院におけるソロリサイタルなど、他多数のコンサートに出演。
歌劇場との契約期間を残し12年間の欧州滞在より帰国。
武蔵野音楽大学卒業、同大学院修士課程修了、同大学院博士課程単位取得満期修了。現在慶應義塾大学大学院後期博士課程在籍中、同研究科リサーチャーを在任。慶應義塾大学非常勤講師。二期会会員。

(1)なぜ、音楽家になられたのか?
両親が音楽が好きだったので、4歳からピアノをやっていました。
ただ、油絵も好きで、建築も大好きで、幼稚園の頃から、木片の積木で二階建ての家を作るのが大好きでした。
その延長で行ったら、建築家になっていたかもしれません。
デザインも好きで、写真もとても好きでした。

その中で音楽を選んだのは、音楽は唯一、見えない芸術、耳の芸術で、瞬間芸術だからです。
音楽は建築などと違い、形として残りません。
声楽も、録音では残りますが、録音媒体に残したものは、周波数の観点で言うと、全く別物になります。
「あらゆる音楽は歌に恋をする」という言葉があります。
いろんな楽器でも音楽を表現出来、感動を与えられますが、人の声で歌うことが人に与える感動の大きさは無限大なものがあるのではないか?という私なりの仮説があったので、実践したいと思いました。
しかし、それを実践してみたかったのですが、日本の中では無理だと思いました。
なぜなら、日本は、声楽という分野の西洋音楽を150、160年前にようやく輸入した国だったからです。
ヨーロッパが500年、1000年で作り上げてきた土台はないと思ったからです。
日本人は、取り入れて、それを素晴らしいものにつくり上げる力はありますが、その歴史の部分は日本の中では体感出来ないものだと思ったからです。
また、実際にその国で生活してみないと、空気の香りも違うのです。
人間関係も通じて、初めて、音楽の根っこの部分に触れれるのではないかという仮定を持っていました。

声楽を始めたのは、高校生の時からです。
声も20歳前後までは成長していきますが、その後は熟成していきます。
武蔵野音大の一年の時に、将来はオペラ歌手になって、ドイツの歌劇場で契約しようと決めました。
それは、ドイツの歌劇場は、雇用形態がしっかりしているからです。
地方公務員や国家公務員の立場になりますので、社会的にも「音楽家」という形で認められるからです。
ドイツの歌劇場を目指すために、日本で習っていた武蔵野音大の外国からの招待教授がデンマーク国籍の方で、その先生の勧めで、2年間、デンマークの王立音楽院にデンマーク政府の奨学金を受け留学しました。

(2)ヨーロッパでのご活躍のお話
ドイツのエッセンという歌劇場に5年契約し、オペラ歌手として歌いました。
その後、北ドイツのリューベック(街自体が世界遺産になっている美しい街です)の歌劇場に2年半契約しました。

(3)なぜ、日本に戻っていらしたのか?
リューベック時代に、ドイツのグリーンカードを頂きました。
これを貰うのは、なかなか難しいのです。
必ず、仕事を持っていなければ、いけないですし、東西ドイツが統一した後の問題が山積みの時でしたし、移民問題も出てきた時でした。
また、東西冷戦が壊れたので、ドイツの歌劇場は雇用形態がしっかりしているので、旧東欧諸国の近辺にいた、素晴らしく優秀な歌手たちが、みんな、ドイツの歌劇場と契約を取りに来ました。
その為に、一つのポジションに、物凄い数の人が受けにきました。
また、国内も、東西ドイツの意識的な感覚のずれがおおきくて、教育制度も違い、国は混乱していました。自分は長男なので、日本に戻り、家を継ぎ、親を守り、お墓を継がなければならないと考え始めたきっかけはグリーンカードでした。
このままドイツに居て、「ドイツの土に帰るのか?」とか、自分の名前の掘られたお墓の姿を想像したりしました。
その時、「日本に戻るなら、今しかないな」と思いました。
30代後半でしたので、0からもう一度日本での基盤を築くなら、最後のチャンスだと思いました。
そして2002年に戻りました。
日本は、人と人との絆、連携を重んじる国ですから、ご縁をことさら大切にする国がらがあるとfurukawa2思います。
その半面、外から来たものを受け容れて、相対的に活性化させることが苦手な傾向があるように感じられます。これは、歴史背景や、島国という地形的な特性がそうさせているのかもしれません。
国内で活躍してきた演奏家はもとより、海外で活躍した演奏家がもっと活躍できる体制や工夫が必要な気がしています。これが叶えば、なんらかの新たな社会的活性化に繋げることができる気がしています。

(4)今後の目標は?
今、ライフワークとして取り組んでいるのは、演奏だけではなく「被災地支援」です。
もともと父方が岩手県出身で、父方の祖父が宮沢賢治さんが産まれ育った花巻市の出身でした。
祖父が、宮沢賢治さんが教鞭をとった花巻農学校(現在は県立花巻農業高等学校)で、賢治さんに教わっていたというご縁もありました。
宮沢賢治さんは、農学校の生徒に音楽も教えていました。
オペレッタも作って、子供たちにも実際に演じさせて教えていました。
宮沢賢治さんが、地元の農業青年たちを集めて「羅須地人協会」という学校を作ったことがあります。ここでは、音楽理論をはじめ農政学等、さまざまな観点で学習講座が開かれました。この教材として著した「農民芸術概論」というのがあるのですが、この中の一文に「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」とあります。賢治さんは世界平和をねがっていらっしゃいました。
私の音楽を通じた被災地支援は、宮沢賢治さんの影響が大きいです。
これからも音楽を通して、国際交流、ならびに被災地支援をしていきたいと思っています。

(2016年9月取材)


 

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