濱名さおり(ソプラノ)

神奈川県横浜市出身
東洋英和女学院大学人文学部社会科学科卒業

幼少の頃よりピアノ、モダンダンスを始め、小学5年生のときに観た宝塚に触発されミュージカルの舞台を目指す。

ピアノの先生からは音大の声楽科で学ぶことを勧められたが学業は経済学を学びたかったため音楽の勉強はプライベートで続けた。
大学卒業後東宝ミュージカル『オズの魔法使い』でミュージカルデビュー。
その頃に出会ったヴォイストレーナーの先生からオペラを学ぶことを勧められ、2000年からイタリアのミラノに渡りベルカント唱法を学ぶ。

2005年イタリアで行われたジュリエッタ・シミオナート国際オペラコンクールで第3位を受賞。

オペラ『ラ・ボエーム』ムゼッタ、『コジ・ファン・トゥッテ』デスピーナ、『椿姫』ヴィオ
レッタ等を演じる。
日本のみならずイタリア、フランス、フィンランドのコンサートに出演し、カンパネラの響きのあるソプラノとして称賛されている。
野口幸子、J Anvelt 各氏に師事。
藤原歌劇団正団員。

1.音楽家になったきっかけ

音楽家になろうと思って生きてきたわけではないのですが、小さいころからモダンダンスを習い、4歳からピアノをやっていました。
小学2年生のときに、お友達の勧めで合唱団のオーディションを受けたとき、「君は将来歌い手になるね」と言われたのがずっと頭に残っていました。

小学5年生のとき、お友達から「宝塚のチケットがあるから見に行かない?」と誘われて行ったら、「あそこに行ったら、わたしの好きなことが全部出来る!」と思いました。
ピアノの先生からソルフェージュを、母の参加していた合唱団の指揮者の先生から、コールユーブンゲンやイタリア歌曲を習いました。

そこで、母に宝塚を受けたいと言いましたら、「まずは高校に受かってから」と言われ、進学校の高校に行きました。
それから宝塚受験に関して調べました。
「背が高くないので、何度も受けないと受からないわよ」と言われて、高校一年の時に一回受験しました。
受けて、落とされたら、宝塚への夢が消えました。

進学校に行っていたので、そのまま音大ではない普通の大学に入りました。
大学に進学してみたら、女子大でしたので、インカレサークルや合コンといった華やかで楽しい日々を過ごしましたが、一年ほど経ったら、ふと「私のやりたいことはこれだったのかな?」と
急に毎日が虚しくなり
「あー!私は、宝塚に行きたいと思っていたけれど、相手が男性でも歌ったり踊ったりしたかったんだ!」と昔の情熱を思い出し、卒業する頃ふと見た新聞に、元宝塚の剣幸さんが、ミュージカル劇団を作るという記事があり、その団員オーディションを受けたら受かりました。
そこで、お芝居やバレエ、タップダンス等のレッスンを無償で受けさせていただきました。
先生方は皆さん、舞台でお仕事をされてる方でしたので、オーディション情報が入ってくるようになり、舞台に出られるようになりました。
今は無くなってしまった新宿コマ劇場で安達祐実さん主演の舞台に出させていただいたこともあります。
その時、元宝塚の寿ひずるさんのアンダーも努めました。初めて観た宝塚の舞台に出られていた寿さんとお仕事ができたのは本当に感慨深かったです。

そのころ、ボイスレッスンに行きました。
その先生からは、「君はオペラをやったらいいね」と言われました。
「ミュージカルを歌うために来たのに、オペラ?」とは思いましたが、確かにクラシックなミュージカルでは、音大を出た方が歌われていたので、それもいいかと思いました。
そうするうちに、先生が、ドイツの「ミス・サイゴン」というミュージカルに合格されドイツに行かれてしまいました。
その先生に「ドイツに観においで」と言われて、行ったら、ミス・サイゴンのオーディションを受けさせていただき合格をいただきました。

その後、サンリオピューロランドのシアターにも出演しました。
「音大じゃないから、藤原歌劇団とかに所属してみたら?」と言われ、藤原歌劇団の養成コースを受けたら受かりました。
午後5時までピューロランドで踊って、夜は藤原歌劇団のオペラ歌手育成コースに通うという生活を2年続けました。
その時に出会った先生が、結婚されて、子供もいらして歌われていたので、「人生のロールモデル」を見せていただきました。
次第にオペラへの思いが強くなり、生活の基盤が無いと歌を続けられないと思い、結婚しました。コース修了後、藤原歌劇団の団員になることが出来ました。

この頃にはイタリアで勉強したいと思いはじめ、イタリアに留学していたお友達のところに泊めさせてもらい短期留学をしました。その後、夫のボストン留学が決まったので、私もボストンからイタリアへ引き続き勉強に行かせてもらいました。
彼の完全帰国の時に、一緒に日本に戻ったのですが、その前に、「ジュリエッタ・シミオナート」という方の冠のついたコンクールを受けたら、第3位を受賞することが出来ました。
日本に戻ってからは、オペラ未来プロジェクトでミヒャエル・ハンペ氏演出のオペラに出たり、宗教曲のソリストをさせていただいたり、友人がリサイタルを企画してくれたりしました。久しぶりにミュージカルの舞台にも立たせていただきました。その間に子供を2人産みました。
振り返れば音楽家と言っても良いのかな?という人生になっていました。

2.これからの目標や夢

昔は、結婚しない、子供を産まない選択をされる方が多かったですが、今は、世界的に活躍する声楽家の方も結婚されたり、子供を産む方も増えました。
昔は、声そのものが何より重要でしたが、今は、カメラでズームされてしまうので、役に対する説得力や、演技に対する説得力がより求められるようになってきたと思います。
人間としての経験も舞台に生かされると思います。母であり歌い手でもある人生を創っていきたいです。
コンサートの感想では「とても癒された」というお声を頂くので、来てくださった方が癒やされる、その心が世界平和に繋がると本気で思っているので、そんな歌を歌える歌手になりたいです。
下の子も小学校に入学したので、コンサートを企画したり、ミュージカルの舞台にもまた立ってみたいですね。

3.音楽家を目指す方々へ

小さいころから芸事に思い入れがある人は、その情熱を消すことは出来ないと思います。しかし人生は長いです。芸術への情熱は持ち続けながら、アーティスト以外の自分として生きることも大切だと思います。(学業、ボランティア、親になるなど)アーティスト以外の自分が何者であるかがわかれば、芸事で辛い時期があったとしても情熱や自分の軸がぶれないと思います。
オペラ歌手のレナータ・スコットさんがルネ・フレミングさんに「子供を持ちなさい」と言われたそうです。人間としてのチャンスを掴みつつ、芸術への情熱を燃やしつづけることはできると思います。
親のため、これだけしてもらってきたから、これしかしてこなかったからと辞めることが出来ず疲弊してしまった仲間も見てきました。
誰かのためにではなく、自分が芸事をやりたいという情熱が大事だと思います。
人間としての軸をしっかり持ちながら、アーティストとして芸術への情熱を燃やして、生きていってほしいと思います。

(2018年9月取材)


 

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